恒二の暮らした家


白石工業の桑名工場が操業を開始した時、本社は兵庫県の尼崎であった。
創業者でもある社長の白石恒二は、当然本社のある尼崎に住んでいたと思われる。
しかし、同工場の近くに、恒二が暮らしていた痕跡がはっきりと残る廃屋があった。
尼崎に本邸があり、こちらは別邸だったのではないだろうか。
そして、技術畑出身の恒二は、本社よりも研究所の併設された桑名工場の方が居心地がよかったのではないかと想像される。






工場から少し離れた場所に、庭園のある立派な日本家屋が朽ちている。



研究熱心な恒二らしく、自宅の棚にも薬瓶が並んでいた。



言いたいことはいっぱいあるが、今日のところは聞いてやろう。
社長へのメッセージが“上から”なのはどうしてだろう。
今の大企業には無いような、人間味が感じられた。



“強制家屋疎開”させられた人からの、電話番号通知。



JALの1963年の時刻表。
この家の中では、比較的新しい部類に入る。



大正8年の白石工業創立総会決議録。
こんな貴重な資料が、こんな場所に放置されていていいのだろうか?



同じく大正8年の辞令簿。



当事の写真も落ちていた。



写真の裏には、きちんと説明が添えられていて、分かりやすい。



伊勢神宮の特別会員でもあったようだ。



さらには、白石工業の前身・白石兄弟社の書類まで見つかった。
大正6年。当事の状況は、想像するのさえ難しい。



「顕微鏡下の世界」の外箱だけが落ちていた。
白石工業が日本で初めて電子顕微鏡を実用化した。








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