神岡鉱山 栃洞保育園
神岡鉱山の中でも、特に栄華を極めて栃洞地区。
かつては岐阜県一の繁華街があり、わざわざ山の下に住んでいる人が買い出しに来るほどだった。
鉱山が発展する初期の段階で小中学校が開校したが、保育園ができたのは、閉山直前の昭和52年だった。
この頃には、既に大幅な人員整理が進行していて、同じ年に栃洞中学校が閉校している。
なぜそんなタイミングで保育園を作ったのか疑問ではあるが、わずか9年後の昭和61年に休園、現在に至る。
栃洞地区で最期に建造された建物だけに、真新しい印象を受ける。
内部も殆ど荒れておらず、がらんとしている。
現在でも廃園ではなく、休園の状態。つまり、いつでも復活させられる。
もっとも、復活させるような理由は皆無だが。
カラフルな小便器。
クラシックカーの壁紙。モダンな感じだ。
栃洞小学校からもらってきた(?)跳び箱もあった。
そして、なぜか保育園の中に生活感のある部屋があった。
いわさんの表札。
同じくいわさんの表彰状。
それも、保育線や教育とは全く関係なく、化粧品のセールスマンへの表彰。
昭和46年だから、開園前だ。化粧品のトップセールスマンから保母さんに転職したのだろうか。
数少ない卒業生が残した作品。
運動会も、少人数だったのだろうか。
鉱山の街ならではの一句。
廃墟になったのは保育園だけではなく、街そのものと、街の発展を支えてきた産業が根幹から廃れ、消えて行った。
鉱山末期に開園した保育園。
卒園生たちは、今頃どうしているだろうか。
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