『最大廃墟神岡鉱山』発行によせて
(「神岡ニュース」2007年10月11日号掲載文)
岐阜県の山奥に鉱山があることは、子供の頃から知っていました。
しかし、だからといって鉱山を訪れることなどある筈もありません。
ある日、「神岡鉄道の貨物列車廃止へ」というニュースを見て、神岡という町に行ってみたくなりました。
私が最初に神岡を訪れたのは2001年の春、鉱山全盛期などとっくに過ぎ去り、閉山直前の頃でした。
車を走らせていると、非常に鉱山らしい山肌と煙を上げる巨大な精錬所が車窓に見え、「鉱山の町」という印象を強く受けたのを覚えています。
最初に栃洞地区を訪れると、多くの住宅や商店、浴場、学校等が全て廃墟になっていました。
かつて賑わっていたであろう街が消滅し、このような残骸になっている姿に、強い衝撃を受けました。
なぜ、このようになってしまったのか。
賑わっていた時は、どんな雰囲気だったのだろう。
そうした疑問と好奇心が、自宅に帰ってからも私の頭の中を占拠していました。
そして、私の神岡通いが始まりました。
栃洞地区だけでも広大で、幾度訪れても魅力が尽きることはありません。
何の情報もなく、ただやみくもに歩き回っていたため、鉱山のメイン施設ともいえる選鉱場に行き着けたのは、十数回目の訪問でした。
神岡鉱山訪問の回を重ねるうちに、栃洞だけでなく神岡鉱山全体のことが、そこで働き暮らしていた人々のことが、鉱山と共に歩んできた神岡の町のことが、気になりはじめました。
栃洞のほか、茂住、大津山、跡津等の各地区にも、何度も通いました。
訪れる度に新たな発見の連続で、疑問が解消されては新たな疑問が次々と出てきました。
栃洞と茂住には選鉱場があったので、そこにある機械類の役割も気になるようになりました。
気になることはどうしても解決したい性分で、鉱山資料館や図書館、インターネット等で情報を集めて当時の状況を推測し、再び現地に行ってその仮設を検証してきました。
現地に行って気になったことを調べ、また現地に行って…の繰り返しです。
気になることが無限に沸いてくるほど広大な鉱山と、付随する街の廃墟。
それらに魅せられて、神岡通いは今も続いています。
昔から神岡に住んでいる人は、好況に沸いた黄金期を知っているので、全てが廃墟になってしまった今の姿を見ると、感慨深いものがあるのではないかと思います。
完全な「よそ者」である私は、稼動していた当時の状況を全く知らず、廃墟となった鉱山を見ることから「神岡」が始まりました。
神岡鉱山のことを知れば知るほど、その凄さと底力が分かってきた気がします。
1800年にも亘る歴史、東洋一と言われる規模、世界の鉱業をリードし続けてきた技術力、日本の経済成長を牽引していた経済効果等々、まさに日本一の名に相応しい鉱山です。
そんな偉大な鉱山が、私の住む岐阜県に存在していたことを知り、少し誇らしい気持ちになりました。
神岡に住む人は、もっともっと誇りに思っているに違いありません。
長い長い歴史を誇る鉱山が終焉を迎える瞬間に生きていることは、大きな不幸なのかもしれません。
しかし、この瞬間に生きていることに運命的なものを感じ、鉱山が山へと変わってゆく姿を記録したいと思うようになりました。
今回、「最大廃墟神岡鉱山」を作るにあたり、こだわったことが一つあります。
それは、神岡鉱山の今現在の姿を載せることです。
当時を知る人が見れば感慨深く、私のように全く知らないよそ者が見れば、往事の姿を想像し、好奇心を抱いてもらえるように。
そして、神岡鉱山は廃墟になってしまいましたが、それで終わるようなヤマや街ではないということを、知って貰いたかったのです。
ノーベル賞を受賞したニュートリノの研究をはじめ、鉱山で培ってきた数々の先端技術を駆使し、多くの異分野で活躍が始まっています。
今も神岡で暮らし続けている人たちの明るい笑顔を見て、「神岡の栄光は決して過去だけのものではない」ということを確信しました。
◎もくじ
ページ№
1 表紙
2 「日本最大の廃墟 神岡鉱山」プロローグ、神岡鉱山の歴史、広域地図
3 「栃洞」栃洞地区見取り図
4 「栃洞選鉱工場」建設から使用停止まで、四四起業、選鉱場とは?
5 栃洞選鉱場の写真
6 栃洞選鉱場 文化庁が保存を断念
7 栃洞の鉱員アパート(鉄筋)
8 栃洞の鉱員アパート(木造)他関連施設
9 栃洞周辺の集落(木造アパート)、二十五山露天掘り区、漆山鉱山
10 「茂住」取り壊しの近況
11 茂住、跡津地区
12 「大津山」一枚壁 繁栄→閉山→火災→廃墟
13 大津山の写真
14 「再生する山」エピローグ、喫茶「あすなろ」のご紹介
15 著者紹介、クレジット
16 裏表紙
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