『廃墟という名の産業遺産』発行によせて
神岡鉱山はなぜ世界遺産に登録されないのだろう?
(「神岡ニュース」2008年8月28日号掲載文)



島根県では昨年、石見銀山が世界遺産に登録され、連日観光客で大いに賑わっているという。
日本の近代化に貢献した産業がその役割を終え、遺産となっている建造物が、にわかに注目を浴びている。
そんな折、『廃墟という名の産業遺産』(発行:インディビジョン)が発売された。
この本では、貴重な産業であるにも関わらず、様々な理由から放置され、保存されることも世間から注目されることもなく、廃墟と化してただ朽ちているものを全国からピックアップして紹介している。

本書の中で神岡鉱山が取り上げられており、その原稿依頼を受けた時、書名と神岡鉱山のイメージがピッタリと重なった。
神岡鉱山は、その歴史や規模、担ってきた役割を考えれば、世界に誇れる国内屈指の産業遺産といえるだろう。
今さら書くまでもないかもしれないが、神岡鉱山の偉大な功績について簡単に触れておきたい。
今からおよそ1300年前には神岡に鉱山があったという記録があるが、最近の分析結果では、1800年も前の三角縁神獣鏡から神岡鉱山の鉛が検出された。
18世紀にも及ぶ鉱山の歴史は世界的にみても珍しく、地球上で屈指の歴史を誇る鉱山だといえる。
時は流れて明治に入り、三井によって全山統一が成し遂げられたことで、神岡鉱山は急激に発展してゆく。
世界に先立つ新技術を次々と開発し、大いに躍進を遂げた。
特に繁栄を極めた昭和40年代には、採掘量は日本一の4700トン/日にも上った。
1万人を超える雇用で数万人の生活を支え、産出された鉱物資源と経済効果は、日本の高度成長を下支えした。
皮肉にも、自らが担った高度成長の結果によって閉山のやむなきに至ったが、神岡が発信した鉱山技術は、今でも世界中で受け継がれている。

そんな神岡鉱山の鉱業施設群は、一部現存しているものの多くは廃墟と化し、取り壊し工事も始まっている。
特に昭和初期に建設された栃洞や茂住の選鉱場は、数々の新技術が生まれた現場でもあり、重要な産業遺産だといえよう。
また、全国的にみても解体を免れて現存する選鉱場は数えるほどしかなく、貴重な存在でもある。
坑道跡に建設され、ノーベル賞を受賞したスーパーカミオカンデばかりが脚光を浴びているが、現代日本の礎を築いた選鉱場等の鉱山施設たちは、忘れ去られようとしている。
個人的には、神岡鉱山は島根県の石見銀山よりも世界遺産に相応しいのではないかとさえ思っている。
しかし現実には、栃洞や茂住の選鉱場は保存されることも世間から注目を浴びることもなく、現在ひっそりと取り壊し工事が進行している。
宝の山であった日本一の鉱山は廃墟の山となり、そして今、ただの山になろうとしている。
こうした神岡鉱山のように、表舞台に出ることの無い産業遺産にこそ、生々しい産業の痕跡が残っている。
『廃墟という名の産業遺産』では、産業遺産が保存されることなく廃墟となって朽ちゆく背景についても言及しており、興味のある方はぜひご一読願えればと思う。



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