二股トンネル徹底調査!〜完結編〜 2/2






  近くの集落・・・といっても、二股トンネル付近には人が住んでいないため、かなり遠くにはなるのだが、住民を見つけて早速調査を開始した。
  畑で作業をしていたお婆さんを皮切りに、「どなたか知ってそうな人を教えてください。」と、色んな家や店を回った。
  遠方からお嫁に来た人もいて、意外と戦時中からずっとこの地に住み続けている人は少なく、調査は難航した。
  しかし、粘り強く多くの人たちから話を伺っているうちに、徐々に真実を知る人に近づいていった。



  そして、ついに「二股トンネルは昔、内部で二つに分岐していた」という証言が得られた。
  その証言によると、二股トンネルは、やはり丸山ダムの建設に絡んでいたようで、ダムの資材を運搬するルートになっていた。
  その関係で、トンネル内部で二股に分岐させる必要があったようだ。
  「今と違って小さいトンネルで、男の人なんかは背を屈めないと歩けなかった」との証言も、現実と矛盾しない。



  なぜ分岐していたのか、理由ははっきりとはしなかったが、木曽川の水運と、この418号の陸運のハブとなる施設が、
  ここ二股トンネルの直近にあったことと、関係があるようだ。
  これで、一つの謎は解決したが、せっかくなので、さらに聞き込みを続けることにした。
  さらに幾人かからお話を聞き、最終的には丸山ダムの建設に携わったという人にまで辿り着いた。
  そして、ダム建設当時の作業環境や町の様子など、貴重な話を聞くことが出来た。
  とても興味深い話ばかりだったが、丸山ダム及び二股トンネルについて、人柱説についても切り出してみた。



  その方によると、ダムもトンネルも完成したのは戦後の話で、さすがに人柱なんて話は聞かなかった。
  朝鮮人もたくさん働いていたが、終戦間際に強制連行を隠蔽するために虐殺したなんて話も聞いたことがない。
  そんな事実があれば、少なからず噂が立つし、戦後も朝鮮人の労働者はたくさん働いていた。



  これだけを聞くと、やはりというか当然というか、トンネルのコンクリ内に朝鮮人労働者が塗り込まれているなんて噂、やはり根も葉もない作り話だったのかと思った。
  しかし、これで話は終わらなかった。「人柱も虐殺もないけど、そういえば・・・」と、まるで思い出すかのように、当時の街での噂話を語り始めた。



  ダム建設という巨大なプロジェクトのため、実に多くの工夫たちが現場近くに寝泊りし、働いていた。
  そのなかには、朝鮮人をはじめ、外国人の姿も多かったという。
  過酷な労働に従事する彼らは、夜な夜な酒を飲み、日頃の鬱憤を晴らしていた。



  中には気の荒い者も多く、酔っ払い同士の喧嘩も絶えなかったという。
  そして、ある日突然、姿を消す者も多かった。
  こうした状況から、地元の街では、「喧嘩で殺された人が、コンクリの下に埋められている」と噂されていた。



  噂は噂だが、地元の街で、雰囲気を感じている住民の間での噂である。
  火のないところに煙は立たないというが、証拠は無いし、ダムの完成から50年以上が経過した今、立証する術もない。



  また、これ以外にも、少し気になる話を聞いた。
  丸山ダムの建設に絡み、少なくとも40人近い人が亡くなったとの記録がある。
  しかし、殉職者としてカウントされたのは日本人だけで、朝鮮人等の外国人労働者が亡くなっても、記録されることは無かった。
  事実、丸山ダムを見下ろす位置に建立された“殉職慰霊碑”には、日本人の名前しか記載されていない。



  日本人よりも危険な労働を請け負っていたであろう外国人労働者に、殉職者がいない筈が無い。
  実際には、この何倍もの殉職者がいたに違いない。
  多くの犠牲を伴って建設された巨大ダムは、電力で日本の戦後復興と高度成長を支え、洪水調整機能により、下流域の住民を守ってきた。
  丸山ダムの完成から半世紀以上が経過し、必要性が疑問視されている新・丸山ダムの建設工事が着工された。
  この新・丸山ダムが完成すれば、現在の丸山ダム及び二股トンネルは、ダムの人造湖によって水没する。
  必要性の無いダムを建設し、まるで、都合の悪い歴史を埋葬するかのように・・・そう考えるのは、私の勘ぐりすぎだろうか。
  間もなく国道418号の付け替え工事が終了し、ダム本体の建設が始まろうとしている。



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