東日本大震災 〜緊急報告版〜


今回の地震は、誰も経験したことの無い地震だった。
自分が生きているうちに、阪神大震災以上の惨事は起こらないと思っていた。
しかし、それが現実に起きてしまった。

災害発生の翌週、現地に向かった。
テレビや新聞の情報しかないが、現地は混乱していることが予想される。
出発前に、万全の準備をした。
車に積み込んだのは、ガソリン100リットル、灯油40リットル、食料100食、水36リットル、電池100本、懐中電灯10個、カセットコンロ、電気ポット、折り畳み自転車、ショベル、土のう袋、など。
事前に可能な限り情報を収集し、プリントアウトした紙およそ100枚と、東北地方の地図も積み込む。
同行者がいないことに不安も覚えたが、こんな状況だからこそ、一人のほうが気が楽だった。

高速道路が使えないので、新潟から下道で岩手県を目指す。
出発してからひたすら走り続け、およそ14時間後、岩手県に入った。
当初、知人に救援物資を渡して帰る予定だった。しかし・・・

物資を渡す予定だった内陸部に住む知人に言われた。
「こっちも物資は足りてはいないけど、沿岸部の方がひどい。持って行ってあげたくても、ガソリンが無い。持って行けるのなら、沿岸部に持って行ってあげて。」
自分も困っているというのに、見知らぬ人を思いやる気持ちを、無駄には出来ない。
渡す宛ても無かったわけだが、とにかく沿岸部へと向かった。
そして、最初に訪れたのが釜石市だった。
そこで被災者の方に言われた。
「この惨状を、可能な限り記録して行って欲しい。そして、なるべく多くの人に知ってもらいたい。」
そして、物資を渡す先を探すために被災地を巡りながら、可能な限り多くの被災者の方のお話を聞き、写真を撮影することにした。
当初、撮影することに躊躇していたが、お話を聞いた皆さんは、こうもおっしゃっていた。
「(この状態を)残しておきたくてもカメラが無い。家と一緒に何もかも流されてしまった。」





2011年3月19日 岩手県釜石市港町


2011年3月19日 岩手県釜石市唐丹町


2011年3月19日 岩手県釜石市唐丹町


2011年3月19日 岩手県大船渡市赤崎町


2011年3月19日 岩手県陸前高田市気仙町


2011年3月19日 宮城県気仙沼市新浜町


1日目。元々個人に渡すための物資であったため、量は決して多くない。
避難所に持って行くのも気が引けたので、被災地で道行く人に声をかけた。
しかし、皆同じこと言われた。
「私はまだ、1日1食は食べられる。何も食べられない人がいる。そんな人に渡してあげて欲しい。」
結局、この日は発電機を運んだり外国人被災者に石油ストーブの使い方を指南しただけで、物資を渡せないまま日没を迎えた。
夜、石巻市内の避難所を訪れた。
そして、そこを運営しているボランティアの方に話を聞いた。
「テレビで物資が足りないと放送されると、その避難所は物資で溢れる。ここも、毛布やトイレットペーパーが余っている。」
必要な物資が、必要としている人に届かない現実。
そんな課題に、私個人としてもぶち当たっていた。
翌朝、私はテレビや新聞でよく報道されている被災地を避け、車通りの少ない沿岸部を目指した。




2011年3月20日 宮城県石巻市渡波


市街地から離れ、沿岸部へ入ってゆくと景色が一変した。
どこにでもある郊外の町並みが、ことごとく破壊されていた。
歩いている住民の様子を見るだけで、物資が回っていないことが想像できる状態だった。

港町の集落では、懸命に海面をさらい、使えそうなものを探していた。
私は、通りすがりに見つけた避難所に顔を出した。
本当に申し訳のない少量の物資だったが、快く受け取ってくれた。
それも、「私たちだけもらっては申し訳ない。少し先に小学校があって、そこに100人ぐらいいるから、半分はそちらに持って行ってあげて欲しい。」
たったこれっぽっちの物資で、2箇所の避難所に分配するなど、こちらが申し訳なくて仕方が無い。
それほどまでに、物資が足りていなかったのだ。

次に訪れた小学校の避難所で、少し話し込んだ。
「ガソリンさえあれば・・・」
十数キロ先には、物資が余っている避難所がある。
それなのに、今日の食料すら無いのは、物資を取りに行くガソリンが無く、向こうから運んでくるだけのガソリンが無いからだ。
食料や水は、食べてしまえば無くなってしまう。
恒久的に持続可能な支援として、本当に必要なものはガソリンだった。
復路のガソリンには若干の余裕があったので、本当に僅かではあるが、20リットルを置いてきた。
すると、「涙が出るね」と、いたく感謝された。
被災地では、ガソリンが命綱。ガソリンが人命を左右するということを、実感した。
物資を全て渡し終えたところで、帰路についた。
帰りも14時間の長い道のりだった。




2011年3月20日 宮城県石巻市桃浦


2011年3月20日 宮城県東松島市野蒜


そして、被災地を訪れてから1週間、地震発生から2週間が過ぎた。
木曜日には東北道と磐越道が一般開放され、ぐっと近くなった。
まだまだやり残したことがある。
個人で持ち込める物資は少ないけれど、物資が無くて困っている地域の情報を流せば、すぐに救援物資が届くようになる。
そうしたことを、先週学んだ。
物資を配給する行政や、支援物資を満載したトラックで駆けつけるNPOも、どこに持って行けばいいのか情報が無くて困っていたのだ。
物資の無い地域を探して情報を流す。
それだけだったら、先週のように自分でも出来るのではないかと思った。

金曜日、仕事を終えるとすぐに東北を目指した。
先週は岩手県から宮城県へ南下したが、今回は福島県から宮城県へ北上する計画を立てた。
出発してから10時間で、福島県相馬市に着いた。




2011年3月26日 福島県相馬市蒲庭


2011年3月26日 福島県南相馬市鹿島区


2011年3月26日 福島県相馬郡新地町


2011年3月26日 福島県相馬郡新地町


原発事故で立ち入り制限中の南相馬市まで一旦南下した。
今回の地震、福島県の被害はとかく原発ばかりがクローズアップされているが、津波の被害も宮城県・岩手県と同様に甚大だった。
「原発も大変だけど、津波の被害はちっとも取り上げてくれない。」
相馬市内で地元の方が嘆いていた。

南相馬市から折り返して北上をはじめた。
そして、先週も訪れた宮城県南三陸町を再び訪れた。
今もなお、人口の半数近くが安否不明だ。
家族を探しながら、ふらふらと歩く人の姿。
無精ひげを生やした男性に、「私の妻を知りませんか。」と尋ねられる。
もちろん、その男性と面識は無く、その奥さんのことも全く知らない。
しかし、男性は言葉を続ける。
「生きていなくてもいいんです。腕1本だけでもいいんです。どうしても見つけたいので、見かけたら教えて下さい。」




2011年3月26日 宮城県本吉郡南三陸町志津川


北上するのは南三陸町までとし、ここから少し南に戻って女川町に行くことにした。
女川町は石巻市に隣接する漁業の街だが、先週の時点では行くことが出来なかった。
地震発生から15日目のこの日、ようやく道路が復旧し、行けるようになっていた。
街の沿岸部に入った瞬間、事態の深刻さが窺えた。
これまでに見てきた、南三陸町や陸前高田市も壊滅状態であったが、それ以上に建物の損壊が激しく見えた。
そして、道だけはかろうじて通れる状態になっているが、倒壊した建物や大破した車には、一切マーキングが無かった。
自衛隊や救助隊などが人命検索した場合、検索済みの証としてスプレーで○印や×印のようなマークをつける。
それが一切なかったのだ。




2011年3月26日 宮城県牡鹿郡女川町女川浜


2011年3月26日 宮城県牡鹿郡女川町女川浜


2011年3月26日 宮城県牡鹿郡女川町女川浜


2011年3月26日 宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜



通りすがりのおじさんにお話を伺った。
港町を一望できる高台に病院があり、みんなそこに避難したが、津波はその高台をも軽々と越えた。
避難していた人々は、殆どが流されたという。
おじさんは、高台には行かず近くの鉄塔によじ登った。
てっぺんまで上ったが足まで水が来て、必死に鉄塔にしがみついて難を逃れたという。

物資の状況も聞いてみた。
地震発生から2週間、道が閉ざされていたため物資は届かなかった。
自転車で遠くはなれた避難所まで行き、もらった食パンを家族みんなでちぎって食べた。
今日、やっと自衛隊が道を開けてくれたが、生存者・行方不明者の捜索は明日から開始されるという。
地震から15日目にして、こんな状況だった。
被災地では、未だ孤立している地域もある。
せっかく津波から生き残ったのに、食料が尽きて餓死してしまう。
こんな悲劇が、今もなお継続して起こっている。

日没後の帰りがけに、呼び止められた。
「あの建物から煙が上がっているので、見てきて欲しい。」
建物は鉄筋コンクリートだが、屋上まで津波を浴びて無残な状態になっていた。
建物内部には大量の材木等の瓦礫が散乱し、窓にも突き刺さっている。
こんなところで火が出たら大変だ。
それに、自然に出火したとも考えにくいし、誰かが火を焚いているのかもしれない。
煙が出ているのは2階のバルコニーなので、建物内の階段を上らないと行けない。
周囲は海水に囲まれていて、建物に近づくのも大変だった。
一瞬迷ったが、車からヘルメットと懐中電灯を取り出し、建物内部へ入った。
ヘドロと瓦礫が散乱し、天井からは電線のようなものが大量に垂れ下がっていた。
自然と、「誰かいませんかー!」と大声を出していた。
何とか2階への階段を見つけてバルコニーへ出る。
呼びかけに応答は無く、とりあえず生きている人はいなさそうだ。
バルコニーで瓦礫がくすぶっていたのでとりあえず消火し、車に戻った。
車に戻ると、自分が泥まみれになっていることに気付き、何か、どっと疲れが出てきた。

帰りの車内で、女川町のおじさんの言葉を思い出していた。
「2週間経っても誰も助けに来なかった。もう、日本から見捨てられたのかと思った。」

現在、私は普段とあまり変わらない生活をしている。
しかし、ここから車で行ける場所で、餓死しようとしている人、助けを待っている人が、今もいる。
被災地への支援は、人命救助から避難者への生活支援へとシフトしている。
復興に向けて、仮設住宅の建設も始まっている。
物資は余っていると言われ、ボランティアが殺到し、何時間も待たされているという。
でも、それだけじゃない。
ガソリンが無いために食料が手に入らず、生きるか死ぬかの瀬戸際にある人がいる。
人命検索が追いつかず、猫の手も借りたい状態。
行方不明者の家族にとって、遺体が見つからないと復興は始まらない。
私たちが今できることは、本当にそれだけなのか。
何か別にやれることはないのか、もっと優先してやるべきことはないのか。
今一度考えてみる機会になれば、幸いだ。



最後になりましたが、この震災で被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。
また、お亡くなりになった方のご冥福と負傷された方のご快復、行方不明になっている方の一日も早い発見、そして、被災地の復興を切に願っております。





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