JR宝塚線脱線事故から一年を迎えて
あれから一年が経った。
去年の訪問からちょうど丸一年となる日に、再び現場を訪れた。
前日の深夜に出発し、去年と全く同じ経路で現地入りした。
花を持って車を降り、まずは献花することにした。
あの時は走っていなかった電車が、今は走っている。
献花場所には、あのマンションの脇を入って行く。
入り口には警備員が何人も立っていて、深々と頭を下げたままだ。
途中、列車が激突したマンションの壁が見えた。
献花を終え、踏み切りに戻ってきた。
地元の人が、事故の川柳を書いては貼っている。
このあたりは、3・4両目が車道に飛び出していた場所だ。
当時の光景が、脳裏に蘇る。無残な車体は、今はもう無い。
ここを通過する列車は、みな徐行して行く。
運転士も、通る度に意識せずにはいられないポイントだろう。
線路脇には、「運転手さんがんばって」と書かれた板があった。
一年が経過しても殺伐とした事故現場で、少し心が和んだ。
丸一年ということで、ニュースにもなった。
論調は、去年と何も変わっていない。
この少し前に、JR西の日勤教育と、全国鉄道事業者の運転士指導教育とを比較したところ、差異は無かった、というニュースがあった。
しかし、丸一年を迎えた報道では、そうした内容は吹き飛んでいる。
日勤教育というやり方に落ち度が無かったとしたら、JR西日本の会社としての責任は全く無くなってしまう。
この一年でマスコミも色々と検証した結果、日勤教育しか叩きどころが無いことに気付いたのだろう。
その日勤教育までもが正当化されてしまえば、今までの論調を維持できないし、自分達が間違えていたと認めざるを得なくなる。
そこで、情報の「取捨選択」をして、都合のいい部分だけを報道する。
今までにも、よくやってきた手口だ。
そもそも、日勤教育についての認識が甘かったと、自分自身も反省せざるを得ない。
鉄道会社の使命は、一に安全だが、二に定時運行だ。
運転士の使命も、全く同じ。それが仕事なのだ。
事故後、「安全のためなら少しぐらい遅れてもいい」と言う人が増えたが、それは、あくまでもあの事故があったからだ。
何も遅れる要因が無いのに「運転士が慎重に運転したから」と列車が遅れて、利用者は納得するだろうか。
定められた仕事をこなせなければ、制裁や再教育を受ける。
どの会社であれ、どの部署であれ、民間の企業だったら至極当然のことだ。
運転士の仕事は、安全かつ定時に列車を走らせること。
それで給料を貰ってるんだから、出来なければクビになる。
一連の日勤教育報道は、JRの労働組合問題であって事故の本質では無いと思う。
ご存知のように、国内における労働争議の大半はJRが占めている。
組合差別をはじめ、様々な思想の違いから、多くの血なまぐさい事件を引き起こしてきた。
国鉄時代には、総裁を殺害したうえに山手線に遺体を轢かせるという事件まで発生した。
JRになった今でも組合差別は根強く残っている。
運転士や車掌が事故をやらかした時の対応も、入っている組合によって大きくことなる。
例えば運転士がオーバーランした場合、会社の言いなり組合だと「気い付けろよ」の一言で済むのに、会社に反対してきた組合だと乗務停止30日その間は運輸区で草むしりか区長の説教か写経(運転教則をひたすら書き写す)ということになる。
事故後の報道を見る限り、どうやら特定の組合員にばかり取材したらしい。
あるいは、そうした組合員しか取材に応じなかったのかもしれない。
いずれにせよ、軽率な報道であったと思う。
組合差別の問題は、それはそれで批判されるべきだと思うが、今回の事故の本質では無い。
高見運転手が組合差別を受けていて、それが重荷になっていたのなら話は別だが、そいういう論調でもない。
高見運転手の年齢から考えても、差別を受けている組合に入っていたとは考えにくい。
警察は、今回の脱線事故に関し、刑事事件としての立件を見送った。
事故の責任ばかりを追及するのではなく、これからのことを論じる方が有意義ではないだろうか。
もう二度と、惨事を繰り返さないために。
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