白装束集団は今



2003年のゴールデンウィーク前後にパナウェーブ研究所のキャラバン隊がマスコミに騒がれてから、2年が経過した(2005年6月現在)。キャラバン隊が福井県五太子町の本拠地に戻るまでは、数百人のメディア関係者が追いかけていた。本拠地に入った直後も、周りには中継車が並び脚立が林立していたが、1ヶ月もすれば一人もいなくなった。
その後も、警察の監視は続いていた。パナウェーブ研究所横の林道入り口を塞ぐように、パトカーが1台停まっていた。一応24時間態勢で常駐していたが、所轄のパトカーのようだった。そのパトカーも、2004年夏頃までには姿を消した。現在ではメディアも警察もいなくなり、無監視状態となっている。
そんな中、自称・パナ研ウォッチャーとしては定期的に訪問し、観察を続けている。



日本の国民性として、「熱しやすく冷めやすい」とよく言われる。全くその通りだと思う。ブームで熱狂しても、あっという間に忘れ去られてしまう。あのパナ研報道も、一種のブームだったと思う。「ブームに流されただけではない!」と主張するためにも、継続した観察が必要だと思った。
とはいっても、自宅からパナ研までは車で5時間はかかるため、毎週行く訳にもいかない。どうしても、数ヶ月に一度という訪問ペースになってしまう。今回は、日にちごとの報告ではなく、2年間観察を続けた個人的な感想を綴ってみた。


2004年夏、北陸方面に旅に出たついでに、パナ研前に立ち寄った。前回来た時まで常駐していたパトカーがいなくなっていた。忘れた頃に「施設内で熱中症」とか「近くの川で溺死」という報道がされたが、この時点でそういった報道もすっかり影を潜めていた。
旅の行程の途中だったため、着いたのは午前3時45分。200メートルほど離れた県道脇に車を停めた。研究所は夜間も照明が点いていて、明るい。研究所内での人の動きがあわただしく、私は嫌な予感がした。車から出ずに、様子を窺った。
1、2分後、その予感は的中した。いきなり強力なライトで照らされた。間近で点灯したライトが、激しく揺れながら猛烈な勢いで迫って来た。私は急いで車を発進させた。全身白装束の人間が全速力で走って来る姿が確認できる距離にまで迫っていた。車で走り出してもなお、全速力で走ってきていた。この時ばかりは、本当に戦慄した。「あー、やれやれ・・・」と思ったのもつかの間、後方から白い車が追いかけてきた。日本海沿いの国道に出ると、まるで信号が無いため三国の辺りまで追跡された。何とか振り切ることができた頃には、もう薄日が差しはじめていた。


パナ研を望遠レンズで撮影すると、向こうからもこちらを撮影していることは、以前からよくあった。しかし、追いかけられたのは初めてだった。きっと共産ゲリラだと思われたに違いないが、組織としての孤立感と攻撃性が増した気がした。



報道で騒がれる以前は、パナ研内のミニコミ誌に「キャラバン隊はヤダなぁ〜」というグチも書かれていた。過熱報道された影響でにわか信者が抜け、人数自体は半数以下に激減した。逆にいえば、よりコアな信者だけが残り、少数精鋭化された。さらに、人権侵害ともいえる山梨県大泉村のような扱いを受け、世間との断絶感を深め、孤立が進んだ。
2年前の時点では、「話せば分かる」人たちで、危険性はまるで無いと思った。これを危険とするならば、全ての宗教を危険とみなすことになる。私は、彼らの主張を全く信じようとは思わないし、科学的には否定している。ただし、宗教は人の自由だし、憲法でも保障されている。「ちょっと変わっているから」というだけで排除し、それが結果として危険を生み出しているのではないだろうか。
「誰が白装束を危険な集団にしたのか」
今一度、考えてみる必要があるのかもしれない。

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