阪神大震災の記録


ここでは、1995年1月17日に発生した阪神大震災での体験と、よごれんが撮影した写真を掲示しています
このソースを作成したのは、2002年です
一旦は公開を中止しましたが、2006年になった今、再び公開します
2004年に発生した中越地震において、阪神大震災の教訓が生かされていたことを、嬉しく思います

阪神大震災は、自分に多くの影響を与えました
自分の人生において、あれだけ大きなインパクトを与えたのは、これが最初でした
一日にして、価値観が一変したと言っても過言ではありません
今でも、つい最近のことのように思い出されます
なお、写真の撮影日は全て地震発生当日(1995年1月17日)です

○はじめに
これを書いているのは2002年1月17日、つまり、震災から7年後です。 年月が経過するにつれて、人々から忘れられつつあるように思います。 でも、あの日見た光景・体験した出来事は、いまだ色あせることなく、鮮明に思い出されます。 それだけの強烈なインパクトがありました。 だから、人によっては「忘れたくても忘れられない」ことなのでしょう。 忘れられたくないから、あえて今、震災の記憶を振り返ってみることにしました。

○地震発生直後
当時私は電車で1時間かかる高校に通っていましたが、地震発生時刻の午前4時47分には、まだ寝ていました。 今までに経験したことのない猛烈な揺れで目が覚めました。 揺れは長く続きましたが、起き上がることができず、ただじっと天井を見ていました。 丸い蛍光灯の電灯が、激しく上下左右に揺れ、天井に打ち付けているのを見つめていました。 「天井が落ちてくる。助からんのかな」と思いました。 しかし、数十秒で揺れはおさまり、天井は落ちて来ず、助かりました。 気が付けば、自分の上にタンスが倒れていて、頭のすぐ横に電子レンジとテレビ、鉢植えが落下していましたが、無傷で済みました。 「こんな大きい地震初めてや。このへんが震源やろ」と言い、散らかった部屋もそのままに、とにかくテレビを点けました。 しかし、地震に関する速報は何もありません。 部屋があらかた片付いたころ、NHKニュースで第1報が入りました。 「東海地方を震源に強い地震が発生」というもので、明らかな誤報でした。 地震発生から30分程度が経過し、ようやく「兵庫県南部を震源に強い地震」という報道に切り替わります。 でも、大した情報はなく、NHK神戸支局の局内カメラの映像を繰り返し放送し、「驚いて外に飛び出した老人が転倒して軽い怪我を負った」という内容を1時間近く繰り返していました。 「大きい揺れやったけど、大したことやないんや。」と思い、遅刻しては大変と、いつもより30分早く、午前6時45分頃に家を出て高校に向かいます。 しかし、駅は停電していて、自動改札機も動いていません。 混乱した改札口をすり抜けて、ホームに上がってみました。 いつもはラッシュアワーでごった返しているはずが、閑散としています。 「どうなってるんやろ」と思ったその矢先、轟音に包まれました。震度5の余震でした。 改札の駅員さんに、「どれぐらいしたら電車来ますか?2,3時間かかりますかね?」と聞いたところ、 「時間単位の問題では無いので、いつになったら復旧するか分かりません。この先で軌道が崩壊したり、家が線路上に崩れています」という説明を受けました。 この時はじめて、「これは大変なことが起きてる」と感じました。 それでもなお高校の皆勤が気になった私は、高校に連絡をとって休校ということを確認し、家に戻りました。 家の電話は不通になっていましたが、公衆電話は現金のみ使える状態でした。 ニュースでは相変わらず「老人が一人軽い怪我」と繰り返していましたが、MBS(毎日放送)ラジオのパーソナリティー・川村隆一氏が番組中で 「来る途中、阪神高速が横倒しになってたで」と発言しましたが、他のパーソナリティーは冗談と思い、軽くあしらっていました。 今から考えれば、これが震災の正しい被害状況を伝える第一報だった訳です。



○被災地へ
地震発生からとうに2時間以上が経過し、ようやく詳しい情報が入ってきました。 横倒しになった阪神高速、倒壊した阪神電鉄石屋川車庫、途中階がペシャンコに潰れた高層マンション・・・。 私は、ニュース映像に釘付けになりました。 そして、「こんな近くでえらいことが起きてるんや」と思い、午前9時半、自宅を自転車で出発しました。 途中、屋根瓦が落下しているような所は数多くありましたが、目立って大破している建物もなく、ざわついて落ち着きの無い、いつもと違った雰囲気の街を、自転車で南西へ向かいました。








最初にペダルを止めたのは、阪急伊丹駅でした。 駅舎が倒壊し、電車が波打っている光景に、しばし呆然としました。 ここで、最初に「非日常」を感じました。 ここに一時間ぐらいはいたかと思います。 そして、さらに南へと向かいました。 すると、すぐに途中階が破壊されたマンションが見えてきました。 伊丹駅といい、このマンションといい、こんなスケールの大きいものが、意図せず壊されている光景は、初めてこの目で見ました。








このマンションの横の道路を、何度か自転車で通りました。 外壁がめくれあがっているため、最初に通る時は「コンクリートが落ちてこうへんかな」と思いながら、恐る恐る通りました。 しかし、何度か通っているうちに、何とも思わなくなり、普通に通っていました。 この感覚は、実際に被災地に行った人には分かると思いますが、何とも不思議な感じでした。
このあとさらに南西へ進むにつれて、道路上のがれきが激しくなり、自転車をかついでがれきの山の上を歩くということもしばしばでした。 民家が至る所で倒壊し、電柱が倒れて電線が垂れ下がっていました。 西宮を過ぎたあたりで火事も発生していました。 木造の家屋から激しく炎が噴き出していますが、消防も警察も見当たりません。 倒壊した建物・炎上する家屋数に対し、レスキュー・消防が圧倒的に不足している状態が分かりました。 どこへ行ってもガスの匂いがしたのを覚えています。





JRの線路沿いに西へと進んでいましたが、ところどころで列車が止まったままになっていました。 芦屋が近くなったところで、列車が激しく脱線していました。 架線柱を破壊しながら脱線した客車を見て、改めてこの地震の凄まじさを感じました。 また、この頃には、西の方向から複数の黒煙が立ち上っていて、火事を目撃することも多くなりました。 民家のほか、文化会館のような施設が炎上しているのを見ました。 しい炎を噴き出しているのに消防が来ていない光景も、見慣れて素通りしました。 まさに「戦場」という言葉がぴったりでした。











○帰宅して
さらに西へと進みたいところでしたが、帰宅してニュースを見たかったため、ここで引き返すことにしました。 ここまででも、普通に自転車をこいでも1時間半はかかる距離。 日が暮れるまでに帰りたいという意図もありました。 その途中で自衛隊の車両を始めて見て、ようやく災害派遣されたことを知りました。
地震発生から約10時間が経過。 この頃になると、自宅が損壊した人もがれきの下から這い出した人も「戦場」に慣れて平静さを取り戻し、実際のこれからの生活を考えるようになっていたと思います。 まずは食料の確保でしょう。スーパー・コンビニでは、食料・生活用品が売り切れて、何も商品が無いという状況でした。
私は、夕方4時半頃に帰宅しました。 何事も無く普通に生活している自宅で、さっきまで自転車で通ってきた「戦場」のニュース映像を見る・・・何とも不思議な感覚でした。

○そして、翌日
翌日は、午後から高校の授業が再開され、動いている交通機関を駆使して登校しました。 高校は大阪市内にあり、あまりの被害の少なさと意識の違いに歴然としました。
登校してからの話題は、まず昨日の震災のことです。みんな、ニュースを見てビックリしたと言っていました。揺れは大したことなかったということです。確かに、大阪市内は震度4で、三重県と同じです。被災地からわずか20キロしか離れていないのに、戸棚から食器が落ちてくることもなく、ましてやタンスが倒れてくることなど無かったというのです。そして、みんな平然としています。いや、私には、楽しそうに震災の話をしているように見えました。

学校のすぐ向かいは、大きな総合病院でした。屋上にはヘリポートもあって、今日はひっきりなしにヘリコプターが離着陸しています。自衛隊のヘリ、消防のヘリ、警察のヘリ、報道のヘリ・・・色んなヘリが、みな被災地から負傷者を運んでいるのです。私は教室の窓から、ずっとヘリコプターを眺めていました。そして、自問自答していました。なぜ、授業が行われているのか、なぜ、みんな平然としていられるのか、なぜ、自分は授業を受けているのか、なぜ・・・
ここから被災地まで自転車で1〜2時間。そこには、まだ1万人以上の人が瓦礫の下で、救助を待っています。発生した火災も、鎮火のメドがたっていません。でも、授業が行われ、みんな平然としています。それから毎日、窓からヘリを眺めて考えていました。授業の内容なんて、ちっとも頭に入りませんでした。
今思えば、なぜ行動に移さなかったのかと後悔することもあります。しかし、この時の心の葛藤が私の価値観を大きく変え、今の自分があるのだと思います。
「人と違ってもいい。何と批判されてもいい。自分が正しいと思う信念を貫こう」と決意する、大きな大きな出来事でした。この決意は、今も変わりません。

阪神大震災の犠牲者の多くは、地震発生翌日以降に亡くなっています。家が倒壊して救助を待っている間に、火災で焼け死んだり、衰弱死したりするのです。全国から消防・警察、そして自衛隊が駆けつけ、市民も一丸となって救助・消火活動に当たったにも関わらず、多くの犠牲者が出ました。倒壊した家屋が、あまりにも多すぎたからです。近代における都市直下型地震の恐ろしさ、凄惨さを目の当たりにしました。
でも、悪い事ばかりではありませんでした。当初は略奪もありましたし、弱みに付け込んだ横暴な商売もありました。ビニールシートを1枚1万円で売ったり、カセットコンロのガスボンベを1本1万円で売るような業者もありました。しかし、最後にはみんなで助け合い、励ましあう姿がありました。全壊した自宅のことなど気にかけず、近所の人の救助に当たる一般市民、「人命救助」の至上目標のため職域も肩書きも捨てて不眠不休で働く公務員、倒壊した局内で何日間も休む暇なく安否情報を読み続けたアナウンサー。あの地震に直接関わった人たちは、みんな精一杯、自分の出来る限りのことをしたと思います。これほど感動的な出来事も、他にはありませんでした。

1995年1月17日に発生したあの地震は、今でも多くの人の心に刻み込まれています。そして、これからも。


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