別子銅山 四阪島
精錬所から発生するばい煙は硫酸酸化物を多量に含むため、公害病の原因になり、木々を枯らせる。
別子銅山を経営する住友は、世の中で公害問題が叫ばれるずっと以前から、環境対策に取り組んできた。
山の上に煙突を設けた山根精錬所のような対策をしてきたが、抜本的な解決にはならなかった。
そして、究極ともいえる環境対策が、精錬所を離島に移転するというものだった。
1905年、新居浜の沖合い20キロに浮かぶ5つの無人島を埋め立てて1つの島にし、莫大な予算を投じて精錬所を作った。
結局、ばい煙は風にのって遠方まで流されてきたため、実効性はなかった。
しかし、地元の人たちは「住友は本気で自分たちのことを考えてくれている」と思い、大いに感謝したという。
その後、無人島だった島に5500人もの人が暮らし、小中学校も開校して大いに賑わった。
別子銅山の閉山と運命を共にし、1976年、全ての操業を停止した。
1988年、同島の人口はゼロとなり、多くの遺構を残して再び無人島になった。
こうした経緯から、四阪島は「瀬戸内の軍艦島」と呼ばれることもある。
ただ、軍艦島と違うのは、住友金属鉱山が所有、厳格に管理されており、工場も稼動している。
工場には24時間従業員が常駐している。(住民登録されていないので無人島に変わりは無い)
部外者の立入は一切認められておらず、元島民であっても、上陸が叶わないのが現状だ。
精錬所のシンボルともいえる巨大煙突は、2011年に取り壊されてしまった。
通路は綺麗に清掃され、整備が行き届いている。
商店街。
共同浴場。
共同住宅。
小中学校。
神社も綺麗なまま残っている。
まるで街道の宿場町のような街並みが、今も残っている。
これは、島を貫く地下トンネル通路。
別子銅山を礎に発展を遂げた住友。
ばい煙の無害化を進める過程で大量の硫黄酸化物と窒素酸化物が発生することから、それらを肥料として商品化するために誕生した住友化学。
煙害によるはげ山に植林するために作られた住友林業、鉱員の預金を管理する住友銀行、銅山での事故に備えての住友生命と、別子銅山をルーツとする関連企業は多い。
特に印象的なのは、住友と地元との深い関わりだ。
本社機能は東京・大阪に移っているが、新居浜に多くの活動拠点を残し、毎年幹部が神社を参拝し、新入社員は歓喜坑を訪れる。
昔は公害をばら撒いていたにも関わらず、地元の方も、決して悪い印象を持っていない。
何度も訪問しているうちに、住友は故郷を愛し、故郷に愛されているという印象を強く受けた。
こうした企業と地元との良好な関係も、別子銅山の魅力の一つだろう。
(※このページの島内の画像は、元島民が上陸可能だった頃のものをご提供いただきました。)
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