悲哀の廃集落 1/5
今から50年以上前の1965年、深い山間にある集落に、ダムの建設計画が持ち上がった。
ダム予定地にあたる3つの集落には、合計20戸の民家があり、それぞれ先祖から受け継いだ土地で営々と生活していた。
また、建設地には国内稀に見る広大な原生林が含まれていた。
当時、急成長を続けていた日本では、昼間に急増する産業用電力の確保が急務とされており、貴重な自然林やわずか20戸の民家が消滅することぐらい、僅かな代償として計画が進められていた。
しかし、このダム計画により、地元は推進派・反対派の二派に分かれて、紛糾してしまう。
これまで何も無く平和そのものだった町で、住民同士が対立し、その争いは20年間にも及んだ。
1985年、建設予定地で最後まで頑張っていた反対派の住民も、村の大半が移転し、生活の便から集落を捨てざるを得なくなった。
こうして、ダムを発端とする争いにより、小さな集落は完全に消滅してしまった。
そして・・・
その代償により建設される予定であったダムは、その後の周辺住民の反対運動や、町長の改選等の政治的な力の変動により、凍結された。
20年間の争いにより廃村になってから25年、今は数戸の民家や神社、寺院が廃墟としてひっそりと残っている。
その集落を目指し、車を走らせる。
集落に通じる道も、だいぶ廃れていた。
岐阜を出発して3時間以上、草木の間に、ようやく建物らしきものが見えてきた。
集落に到着。普通の集落にも見えるが、この辺りに有人の集落は無い筈だから、ここが目的地らしい。
まずは車で奥まで通り過ぎ、そこから徒歩で探索する作戦を立てた。
通過してみると、すぐに廃集落だと分かった。
想像していたよりも建物の状態はよく、それでいてすぐに廃屋だと分かる。
思わず鳥肌が立つような、素晴らしい光景だった。
一部の建物は倒壊し、原形を留めていない。
これは、釜戸だろうか。
川へ下りる階段も鋭角さを失い、年月の経過を感じさせる。
早速、一軒の民家にお邪魔する。
釜戸があった。
悲哀の廃集落2/5 へつづく