二股トンネル徹底調査 1/2



2005年2月に単独で再調査した時のレポートです



酷道418号線沿いにある二股トンネル。ここには、色々な噂話があります。
たとえば・・・

1、戦時中に鹿島が在日朝鮮人を人柱として埋めた
2、戦時中に朝鮮人を強制労働させて手掘りでトンネルを完成させ、多くの犠牲者をトンネル内壁に塗りこんだ
3、二股トンネル付近で口の裂けた女性が目撃され、全国に「口裂け女」が広まった
4、昔は内部で二路に分岐していた

などです。しかし、どれ一つ信じるに値する根拠はなく、肯定も否定もできない状況です。
1と2は似たような内容で、二股トンネルが「朝鮮トンネル」の俗称で有名になった所以です。418号の木曾街道沿いには、戦時政策で満州に移り住んだ集落が多くあります。離村して開拓移民となった村民は、昭和20年の敗戦により筆舌に尽くしがたい苦痛を受け、半数以上が満州の野に散ったと言われています。こういった話が、「朝鮮トンネル」という名称を生み出した土壌になっている気がします。
昭和26年に丸山ダムが再着工され、それと同時に今のR418十日楽〜丸山間が整備されました。二股トンネルもこの区間にあります。トンネルの竣工は昭和31年になっていますが、ダムの完成時期を考えると、昭和26年頃にはトンネルの原型が出来ていたのではないでしょうか。当初、たわいの無い噂話だと思っていましたが、一応調べてみる必要がありそうです。
3「口裂け女」のいわゆる都市伝説は、1978年12月に岐阜県から広まったとの学説が有力視されています。発祥の地も、美濃加茂〜八百津の地域とされています。しかし、塾通いが過熱しはじめた時期で、親が子に聞かせた作り話だと言われています。また、口裂け女を目撃したのはタクシーの運転手とされており、二股トンネル付近でタクシーというのは、ちょっと考えにくいですね。
4のトンネル内で二つの道に分岐していたという説、近くの地名を調べても二股という地名はなく、トンネル名称から考えると、あながち嘘とも言い切れません。
まずは、4の確認のため、早速現地に向かいました。



まずは、トンネル付近からアプローチしてみます。
トンネル恵那側から旧道に入ります。



素彫りの小さなトンネルの前を越えると、すぐに道が崩壊してます。



作業服・軍手・ヘルメットを装着し、崩壊した急斜面に挑戦。
枝につかまりながら何とか越えようとしたのですが、思った以上に斜面の地盤が脆く断念せざるを得ませんでした。
実際に行かれた方は分かると思いますが、滑り落ちると大変な所で、一人だったので救援も期待できず、足場が次々と崩れ、最後はかろうじて枝につかまっている状態でした。



ダム湖に滑り落ちそうになりまがら撮った一枚に、石垣のようなものが写っていました。
新道トンネルの露出部分なのか、旧道の落石防止工事なのか定かではありません。



ここで、周辺の地図を改めて見てみます。
迂回県道との位置関係はこのような感じです。
こうしてみると、やはり存在意義がよく分からなトンネルです。



旧道とトンネルは、意外と離れています。
旧道は川にべったりと沿っていますが、トンネルは最大で150メートルほど内陸側を通っています。
最も注目したいのは、高低差です。
あの急峻な山を150メートルも内陸に入れば、トンネルから真上の地表までの距離は、20メートル近くになります。
もしもトンネルが分岐するとすれば、出口はどこでしょうか?
地図のトンネルのすぐ上に、川平から分岐してくる点線の歩道があります。そのもう少し上には、林道の終点があります。
しかし、トンネルは旧道とほぼ同じ高さにあり、歩道と林道は地表にあるため、高低差が数十メートルはあります。
トンネルの入口と出口は、ほぼ同じ高さになければおかしいはずです。
それでも、一応林道を調査してみました。



二股トンネル徹底調査2/2 へつづく


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