東日本大震災

岩手県上閉伊郡大槌町 2011年5月2日









大槌小学校前には、犠牲者を悼む花束が手向けられていた。






自衛隊による行方不明者の捜索が続く。












山田線に沿って走り、沿岸部を離れた。
海から遠ざかっても、どこまでも被災している。
ここに限らず、何キロも内陸部へ入っても、津波の痕跡があった。



自衛隊による行方不明者の捜索活動は、6月30日に終了した。
3月11日の震災当日から3ヶ月間以上にわたる捜索活動により、8415体の遺体を収容した。



震災直後に被災地を訪れることは、賛否両論あった。
しかし、今回に限って言えば、震災直後のガソリン不足のため、被災地を訪れる人は極端に少なく、混乱することはなかった。
あのガソリン不足は何だったのか。
今の日本の物流において、民間の対応を含めてあのような事態が起こり得るのか、疑問もある。
私個人でも僅かな量の燃料を被災地まで輸送できたのだから、タンクローリーを集中的に向かわせることなどたやすかったと思われる。
ひょっとしたら、民間人が一斉に移動しパニックになることを抑制するため、政府が意図的に燃料不足を演じたのではないかと思う。

真相は分からないが、民間人が自家用車で被災地に行くことは、非常に困難な状況だった。
ガソリンが潤沢に手に入る東海地区以遠から、往復に必要なガソリンを全て搭載して行くより他に手がなかった。
それでも、私は絶対に行こうと心に決めていた。
阪神大震災の時に味わった無力感や違和感、地域による激しすぎる温度差を、二度と感じたくなかったからだ。

車に積める限りの物資を載せたところで、所詮は乗用車なのでたかがしれている。
物資の不足している場所の情報を発信するにしても、どこまで役に立ったのか分からない。
自己満足と言われれば、完全な自己満足。
周囲にも大反対されたが、それでも、いま現地に行かないと一生後悔すると思った。
全てを失ってでも、何があっても絶対に現地まで行く。
最初に被災地を目指した時、そう心に決めて岐阜を出発した。

あのタイミングで被災地に入ったことで、私の人生においてもかけがえのない経験となった。
そして、その記録と経験をうまく活かすことが、今後なすべき課題だと思っている。

今後、東海地区や関東首都圏、そして再び三陸地方でも、巨大地震の可能性が囁かれている。
実際に、私が生きている間に、また巨大地震が発生するかもしれない。
そうした災害に自分が巻き込まれた時、悲劇を繰り返さないためにどのように行動するか。
一切の備蓄が無くても、一円もお金を使わなくても、自分自身の行動一つで防災はできる。
事前にシュミレーションし、もしもの時に落ち着いて避難行動を取るだけで助かる命もある。
生存するためにもっとも重要な被災時の行動について、自分自身で考え、家族で話し合ってみてはいかがだろうか。



最後に、今回の震災で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また、1日も早く被災地が復興し、以前のにぎわいを取り戻しますよう、可能な限り応援して参ります。



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