尼崎脱線事故 〜メディアはどう報じたか〜 その1


2005年4月25日午前9時18分、兵庫県尼崎市のJR宝塚線で、7両編成の快速電車が脱線、沿線のマンションに激突した。列車に乗っていた107人が死亡、460人が負傷するというJR発足以来最悪の大惨事となった。

JR宝塚線(愛称、正式名は福知山線)といえば、私もよく利用していた路線で、事故の知らせを聞いた時にも、「あのカーブか!」と、とっさに思った。




最初に現場に着いたのは、事故発生から4日間が過ぎた29日早朝、救助活動が終了した時だった。これだけの大事故、さすがに救助活動中に行く訳にはいかなかった。この時点で106人もの尊い人命が失われたことを知っていたので、着いた時には自然と暗い気持ちになった。現場にいる消防・レスキュー隊員、警察官、JR職員、住民の方々たちは、当然、もっと重苦しく、現場周辺は非常に重々しい雰囲気に包まれていた。私は今までに信楽高原鉄道の正面衝突事故をはじめ、多くの鉄道事故現場を見てきたが、こんなに重苦しく、つらい現場は初めてだった。




それは、100人を超える多数の死者を出したことと、死者に若い人が多かったこと、そして、事故が都市部で発生したからだと思う。田舎で同様の事故が発生していたら、これほどのセンセーショナリズムは無かったはずだ。




救助活動は終了していたものの、まだ現場封鎖は解かれていなかった。そのため、周囲数百メートル以内に近づくことはできなかった。封鎖区域の外周を歩いて回った。軽く2時間はかかった。




一周し終わったが、脱線した車両は全く見えなかった。確認できたのは、5〜7両目のみである。問題のマンション周辺に全く近づけないということと、3〜5メートルはあるビニールシートの壁で脱線車両周辺が完全に囲われているためだ。周辺の地形も、要因の一つだろう。そのため、報道各社はゴンドラ付きのクレーンやヘリコプターを駆使して撮影していた。現場検証や復旧作業のために稼動しているクレーンが3基なのに対して、報道のクレーンが10基、アームを伸ばしている。なんだか異様な光景だ。





数時間いただけで、何だか随分と疲れてしまった。「死」というものをリアルに考えさせられる空間だった。精神的なものが大きかったのかもしれない。午前8時、一旦現場を離れた。




午後3時頃、再び現場に戻った。今度は、献花用の花束を持参してきた。封鎖は大幅に解かれていて、マンションの前まで通れるようになっていた。脱線した4両目の脇では、囲いのビニールシートが時折風に揺れ、無残な車体をさらしている。





今回は、1周するのに1時間もかからなかった。この日、帰る前に花を持ち、献花場所のマンション脇へ向かった。献花台は無く、警察によると、JR職員に直接手渡すという指示だった。そこには大勢の報道陣が待機していて、花を持っているのを見るなり、次々とマイクとカメラを向けてきた。自分よりも前に献花に来た遺族は、十数人に囲まれていて、質問責めにあっていた。帰ることもできない状況で、つらい心境を延々と出ない言葉で語っていた。自分は、花を後ろ手に隠して一旦遠ざかった。そこには、同じように花を隠して持っている遺族の姿があった。献花を諦めて帰ろうとしていたので、話しかけて、隅の方で一緒に渡した。それでも、何社かに写真を撮られた。手渡されたJR職員の方は声を震わせながら、「私が代わりに呼びかけます」と、深々と頭を下げたままだった。献花を直接手渡されるのは、いくらなんでも辛すぎるのではないか。遺族・JR、どちらにとっても、とてもつらい事故だ。私は現場をあとにした。





尼崎脱線事故 その2

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