白装束集団「パナウェーブ」追跡記(前編)





○はじめに・・・
私がこの集団の存在を知ったのは、1997年。
図書館に置かれていた『JI 科学時代の啓蒙書』1997年5月号を、「これ怪しいよ」と友人に勧められ読んでみたところ・・・これは本当に怪しい!あまりの怪しすぎる内容にひかれ、この冊子を手に入れました。
ジェイアイ出版社が出していたこの冊子には、千乃裕子の書いた文章を中心に、科学的らしく見せかけた電磁波攻撃の分析などが載っていました。「共産ゲリラによる電磁波攻撃」「電労の違法工事」などの言葉が並び、まさに「電磁波系」の人たちだと一目で分かる内容で、さらになぜか左翼嫌いでもあり、訳が分からず刺激的でした。

それから月日が流れ2002年9月16日、思いがけずこの集団と遭遇することになります。酷道探索のため、夜中に岐阜から福井に向かって冠山林道を走っていました。そこに、突如真っ白い車10台ほどと白装束の集団が現われたのです。車にはあのグルグルマークがびっしり貼り付けられていて、一見して尋常な雰囲気でないことが分かりました。周囲数十キロには民家が無く、辺りは暗くなっていましたので、この時ばかりは本当に恐怖を感じました。白い車たちの横を、速度を緩めず通過しました。

あまりに不気味な集団が気になって仕方なく、写真に納めたかったため、数日後の昼間にチーム酷道を編制して再訪しましたが、既に立ち去った後で、撮影は叶いませんでした。
それからさらに7ヶ月、家でテレビニュースを見ていて仰天しました。「あっ!あの時の集団だ!!」そう、岐阜県大和町と八幡町の間の林道を不気味な白装束集団が占拠しているとし、にわかにマスメディアが活気付いたのです。そして、「今度こそは・・・」という熱意を胸に、時間の許す限りこの集団を追いかけようと決意するに至ったのです。




○2003年5月1日、岐阜県八幡町



この日は、仕事が終わってから現地入りしました。日没との闘いになったため、チーム酷道では禁止されている高速道路をやむを得ず使いました。断片的な情報で、何とか集団にあと数キロまで近づいてきたと思った矢先、岐阜県警による検問が待ち構えていました。「この先通り抜けできません」「ドライブに来ただけなので、行ける所まで行きます」「この先には行けません。ここでUターンして下さい」というやりとりがありました。しかし、ここまで来て、これで引き下がる訳にはいきません。近くの山道に入って行き、行き止まりに車を置いて山に入りました。報道のヘリだけを手がかりに、日没が迫っていたので、山の急斜面を急ぎました。木の枝をかき分けながら、何度も滑り落ちそうになりながらも、小一時間で何とか問題の林道に到着。


山から出たら、ちょうどこの場所でした。あまりのマスメディアの多さにびっくりしました。あたりはもう暗くなりはじめていましたが、何枚か撮影しました。


そうこうしているとすっかり暗くなってしまい、道の無い真っ暗な山を歩いては帰れなくなってしまいました。大幅な迂回となりますが、あきらめて道を歩いていると、こんな看板が落ちていました。その後、こんな山奥で運良くタクシーが拾えて、車の場所まで辿り着けました。報道の人を乗せてきた帰りとのことでしたが、1,000円以上の距離で、本当に幸運でした。


○2003年5月5日、岐阜県清見村



5日朝6時からパナウェーブが会見を行うと聞き、4日、仕事から帰ってすぐに清見に向かいました。道の駅・パスカル清見には午前4時頃に着き、5時には現地入りしました。最前列に脚立を立てて座っていると、岐阜県警の警備主任の方が話しかけてきました。「(パナウェーブの人は)話せば悪い人たちじゃない」「(フロントガラスのステッカーは)彼らなりの考え方でどうしても剥がせんゆうんだから、それで違反だ検挙だとやってたら、ここから動かない。ある程度はお互い妥協して、動いてもらわんと」「今日の退去も、守ると思うよ」という話が聞けました。


そして午前6時ちょうどに長谷川代表らが現われ、会見が始まりました。千乃代表の自筆文を読み上げ、アゴヒゲアザラシのたまちゃんに餌をやったこと、餌の領収書があることなどを話し、動物を愛護することがいけないことなのかと、言っていました。


この、二ビル星云々という話は全く不可解ですが、40分以上に及んだ会見のうち、30分間ほどは、理解しやすく分かりやすい主張をしていました。メディアで報道されるのは、残りの10分間だけでしたが・・・。


これだけのマスメディア関係者がいたのに、報道はどこも同じで、この会見も記者クラブが仕切っていました。県警は「いい人たち」とまで言ってるのに、東京で現場を見てもいない警察庁長官の「初期のオウムに似ている」という発言ばかり大きく取り上げ、何が何でも凶悪カルト集団に仕立て上げようとしているようでした。




○2003年5月8日、長野県茅野市「ビーナスライン」車山高原展望駐車場



5日に清見村を出た一行は、6日に野麦峠を越え、国道19・20号を経て、7日未明、目的地である山梨県大泉村の近くまで至りましたが、村に入る道を全て封鎖され、撤退を余儀なくされました。本拠地のある福井方面に帰るということでした。
こちらも7日に家を出発し、8日早朝、一団が留まっている白樺湖近くのビーナスラインに着きました。標高が1,500メートルあり、天気は雨、雲が立ち込めていて、状況は最悪でした。




○2003年5月8日、長野県茅野市「ビーナスライン」



何度か現場の前を行ったり来たりした後、車列が撮影できそうな場所に車を止め、張り込みをはじめます。待つこと2時間以上、ようやく車列が動き出し、姿を現しました。


覆面パトカーの先導で非常にゆっくりとした速度で近づいてきて、途中で一旦停止してパトカーを割り込ませます。


車列の3台目、千乃裕子代表が乗っているとされる車です。


白い車の後には警察車両が続き、さながら西部警察のエンディングのようです。さらにその後には道路公団や地元自治体、報道関係車両が入り交じり、テレビ局の中継車が無理に割り込んではクラクションが鳴り響いていました。私は無理なく中継車と道路パトロール車の間に入り、しばらく追尾してからわき道にそれて先回りしました。道の脇にある駐車スペースや空き地には、必ず消防団や市の職員が立っていて、中には水道局や地元商店の車もありました。

後編へ続く

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