東日本大震災

福島県相馬市・南相馬市 2011年3月26日





前回の訪問から1週間。
帰ってきてからはいつも通り仕事し、いつも通り子供と遊ぶ、いつも通りの生活を送っていた。
ここから車で行ける場所に、食料がなくて空腹に苦しんでいる人、燃料がなくて寒さに凍えている人、肉親と連絡が取れず不安に駆られている人たちがいる。
現代の日本で、こんなことがあるのか、あっていいのか。
自問自答を繰り返す1週間だった。
そして、週末が近づくにつれて「もう一度行こう」という思いが大きくなっていった。
その理由は、緊急報告版で記述の通りだ。
また、前回は一人での訪問だったが、今回はTEAM酷道のメンバーが一人、同行したいとの申し出があった。
金曜日の夜、仕事を終えると、先週末と同じ手順で速やかに準備を行い、岐阜を出発した。
前回と同様、多くの人の協力を得て、ガソリン携行缶を借りまくって出発することが可能となった。





翌朝、原発事故の影響で立入が制限されている南相馬市からスタートした。



多くのエリアが水没したままで、消防や警察の援助隊も原発周辺は自主規制しているため、外部からの救援は限定的だった。









道も途絶えたままになっている。



この付近で、会社の同僚を探しに来たという方々と出合った。
同僚の家があった場所には、何もなかった。
ただただ、言葉を失うだけだった。



走り回っていても、救助隊の姿は見当たらない。



時々、地元の消防団の人たちが行方不明者を捜索している姿を見かけた。
外部からの救援が見込めないので、自主救助するしかないのだ。



防潮堤も、今回の津波の前では無力だった。



津波は沿岸部の家々を飲み込みながら流れてゆき、波が行き止った場所に瓦礫の山を形成する。



南相馬市で、地元の人たちが話していた。
「原発のことはよく報道されてるのに、津波の被害はちっとも報道してくれない」
福島県の被害は、何も原発だけではない。
地震や津波による被害も、宮城や岩手と同じぐらい受けている。
それなのに原発のことしか報じられていない現実に、現地の人は不満を持っていたようだ。
実際、津波被害への支援や救援は他県と比べて十分とはいえず、もっともだと思った。



 東日本大震災 次へ


 東日本大震災のページに戻る