東日本大震災

宮城県女川町 2011年3月26日









コンクリートをも破壊する津波の威力。






女川町を襲った津波の高さは17.6メートル。
町の中心部が、一時、水深17.6メートルに沈んだ。
それらの海水が一気に流れ込み、また一気に引いた際に、あらゆるものを破壊した。



南三陸町の津波は15.4メートル。
わずか2メートルの差だが、これが鉄筋コンクリートの建物をなぎ倒したとみられる。



津波は、この高台の病院にまで達した。
避難して油断していた人たちを、次々に飲み込んだという。















緊急報告版でも書いたが、話を聞いたおじさんの一言が忘れられない。
「もう、日本から見捨てられたのかと思った。」
地震発生から16日目にして開始される人命救助と被災者への支援。
15日目にして道路を開通させた自衛隊員は、「遅くなりました」と頭を下げ続けたという。
彼らもまた、無念の思いだったに違いない。

話を聞いたおじさんに些少の物資を渡し、岐路に着いた。
もうすっかりと日が落ちて真っ暗になり、足元には海水が満ちてきていた。

この時同行していたメンバーは、このあと何度か被災地を訪れ、読経できる僧侶を連れて行ったり、食料の支援をしたり、思い出の写真の捜索を手伝ったりしている。
実際に被災地を訪れたことで、何かしたいという思いが強くなると同時に、自分に何が出来るのか、何をすれば役に立つのか、分かるようになったようだ。
写真を捜索していた時に、幼い子供の遺体の一部を発見し、自衛隊に引き渡した。
本当に悲しい現場だが、ご遺族にとってはかけがえのない発見だっただろう。
震災からある程度時間が経過すれば、1日に発見される遺体は十数体程度。
十数万人が捜索して十数体なので、単純に計算すれば捜索者1万人がかりで1体を発見する計算になる。
実に多くの方が亡くなっているが、その影で、捜索に当たった人の数は、その何万倍にもなる。
生存していないと分かっていても、遺族に遺体を引き渡したい。
そうした強い使命感を持って捜索を続けていた多くの自衛隊員、消防職団員、警察官、そして一般市民の姿を、決して忘れることはないだろう。



 東日本大震災 次へ


 東日本大震災のページに戻る