東日本大震災

宮城県気仙沼市 2011年3月19日


















沿岸部に近づくと、街が水没していた。



地震、津波、火災、そして水没。もはや、街ではなくなっていた。



この地域では、東京消防庁の支援隊が捜索していた。
消防は全ての都道府県から支援隊を派遣したが、都道府県単位で1つの大隊を作り、1箇所で活動していた。



市街地を離れ、南に向かっている途中に駐車場があったので一息ついた。
ここから見える街も、ことごとく壊滅している。





駐車場の近くを歩いていた人に、声をかけた。
最初に訪れた釜石で「もっと困っている人に」と言われ、宙に浮いてしまった物資を渡したかったからだ。
ご自宅の前まで行ったが、迷った末にこう言われた。
「喉から手が出るほど欲しいが、この近くの避難所でも、もっと困っている人がいる。私たちだけ、もらう訳にはいかない。」
そうして、再び引き受け先を探して、さらに南に向かうことになった。

被災地では、普段は探索に使用している作業着にヘルメット、長靴が大いに役に立った。
そんな格好で歩いていると、色々な方から声をかけられる。
「これを運んで欲しい」「持ち上げるの手伝って」「そっちを持ってくれ」
物資の引き受け先を探しつつ、多くの人から話を聞き取り、写真を撮って記録する。
ただそれだけではやりきれない気持ちになるので、何でも声をかけてもらえたのは、本当にありがたかった。

特に変わっていたのは、外国人被災者に石油ストーブの使い方を教えて欲しいと頼まれたことだろうか。
停電しているので、石油ファンヒーターも使えない。
昔ながらの、点火・消火レバーのついた石油ストーブが貸与されたが、使い方が分からないという。
各ご家庭に上がらせてもらい、身振り手振りで使い方を伝授すると、とても喜んでくれた。



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