岐阜の路面電車   繁栄〜終焉〜廃墟〜そして、何も無くなった





岐阜はかつて、路面電車の街だった。
岐阜駅を中心に、縦横無尽に線路が延びていた。
町の発展とともに線路が延び、線路が延びることで街が発展してきた。
約100年間かけて線路を延ばしてきた路面電車は、近年になって段階的に廃止された。
最終的には、岐阜市街地に乗り入れる岐阜市内線・美濃町線・田神線の3線のみとなったが、2005年3月31日に廃止され、ついに岐阜の街から路面電車が完全に消えた。
マイカーの普及、少子高齢化、人口の減少、維持運行費の増加・・・
理由は色々とあるが、最終的には自治体と運行会社である名古屋鉄道(名鉄)の政治的な判断だった。

路面電車は環境への優位性が非常に高く、建設コストも低いことから、環境先進国であるドイツをはじめ、世界的に見直されている。
日本では、自動車の普及とともに路面電車は廃止され、大都市では地下鉄化が進められた。
しかし、地下鉄は莫大な建設費が必要で、運行を担う自治体や第三セクターは巨額の赤字を抱え、利払いもままならないのが実態だ。
また、高齢化社会を迎えるにあたって、地上から地下への移動も必要としない路面電車は、環境と人に優しい公共交通として、日本国内でも見直されている。
具体的には、路面電車の新規建設や路線延長に補助金が出るなど、国も本腰を入れ始め、実際に路面電車の路線を延長する鉄道会社も現れた。
そんなさなか、我が岐阜県では、路面電車が全廃された。
あまりにも時代に逆流し、繊維産業とともに廃れゆく一方の“岐阜”を象徴する出来事だといえよう。

民間企業が運行している以上、赤字が続けば廃止もやむを得ない、という意見もある。
それはもっともな意見だが、末端区間は1999年と2001年に相次いで廃止されており、市街地区間だけが残っていた。
通学・通勤客が多く、決して乗客が少なかったとは思わない。
黒字化のための経営努力をしていなかった訳ではないが、まだやるべきことはあっただろう。
廃線は、鉄道会社の経営努力の不足と、沿線自治体、特に岐阜市の非協力的な体制が災いした結果だと思っている。
県庁所在地の市街地で、路面電車の電停に安全地帯もなく、幹線道路の真ん中でいつ車に轢かれるかも分からない状態で電車を待つというのは、いかがなものだろうか。

このような顛末で路面電車が廃止され、岐阜に住む者として恥ずかしさを感じると同時に、後世に貴重なインフラを残してやれなかったことに悔しさが残る。
既に線路や設備の撤去・解体が進んでおり、一度剥がされたレールが再び敷き直されることは、少なくとも私が生きてるうちには無いだろう。
それならば、せめて岐阜に路面電車が走っていたことを記録し、廃線から廃墟となって何も痕跡が無くなるまで、見届けようと思った。
そうした思いから、このページを特集することにした。



  1.路面電車のあった風景
      市内線・揖斐線(1)
      市内線・揖斐線(2)
      美濃町線・田神線線(1)
      美濃町線・田神線線(2)

  2.最後の夜
      最後の夜(1)
      最後の夜(2)

  3.消えゆく風景
      市内線の撤去工事(1)
      市内線の撤去工事(2)

  4.廃線跡
      揖斐線(1)
      揖斐線(2)
      揖斐線(3)
      揖斐線 忠節駅
      揖斐線 美濃北方駅
      揖斐線 黒野駅
      美濃町線・田神線(1)
      美濃町線・田神線(2)
      美濃町線・田神線(3)
      美濃町線 市ノ坪車庫
      美濃町線 新関駅



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